warmth|ウォームス(群馬県・高崎)福島氏が語る、人生とコーヒーの交差点

PostCoffeeがお届けするコーヒーの味わいがそれぞれ違うように、コーヒーの味を決めるキーマンであるロースターたちがこれまでに歩んできた道も、それぞれ。本企画では個性豊かなロースターたちのコーヒーとの馴れ初めや、これまで歩んできた軌跡についてお話しをうかがいます。今回登場するのは、群馬県高崎市のコーヒーショップ「warmth」のオーナー・福島宏基氏。

warmth(ウォームス)の店内の様子

コーヒーショップ「warmth」を営む傍ら、生豆商社「SYU・HA・RI」のグリーンバイヤーとしても活動する福島氏。自身の肩書きについてうかがったところ、「自分自身がロースターやバリスタをしているという感覚がなくて。“コーヒーのことをやっているひと”くらいのスタンスがちょうどいいのかもしれませんね」と、おどけて見せるが、コーヒー業界では名の知れた存在であり、誰もが認める“コーヒーマン”。30代前半の若手ながら、筆舌に尽くし難いほどの場数を踏んできた福島氏とコーヒーの出会いは、意外なところからはじまった。

高円寺、バンドマン、居酒屋店員。
中央線で葛藤した青春時代

「僕の家系は“スポーツ一家”なんです。というのも、父親は競輪選手として、母親は野球だかソフトボールだかで、姉はソフトボールで国体第三位の成績を収めたアスリート一家なんですね。家族で国体に出ていないのは僕だけ。でも、身体的なポテンシャルがあることは自分でもわかっていて、体力測定では学年でいちばん好成績なのに、マラソン大会ではビリから3番目みたいな。いかんせんサボりグセがある少年でした(笑)」

群馬県の佐波郡玉村町で生まれ育ったという福島氏。近所でタニシやザリガニをとったり、田んぼにいるオタマジャクシをすくったりと、のどかな場所で幼少期を過ごし、小学校から中学2年生までは野球少年として活躍。しかし、ヒジの故障をきっかけに、友人に誘われて音楽の世界へ。高校時代にはバンド活動の楽しさにどっぷりと浸かり、卒業と同時に東京へ。八王子にある音楽の専門学校へ入学し、アマチュアながらバンドマンとしての頭角をあらわす。

「専門学校で知り合った仲間とバンドをはじめたんですが、同時に地元・群馬の友人ともバンド活動をしていたため、ふたつのバンドを掛け持ちするかたちで活動していました。当時は各地をツアーしたり、CDもリリースしたりしていました」

20代になったばかりの当時、バンドマンの聖地としても知られる中央線・高円寺に住み、居酒屋のアルバイトをしていたという福島氏。バンドマンとしても勢いがつきはじめたようにも思えたが、ある日突然、東京のバンドが解散。同時に、福島氏は地元のメンバーと組んでいたバンド仲間にも連絡を取り、自ら音楽の世界から離れることを決意。音楽という自分のアイデンティティから離れたことで、「本当に自分には何もなくなったと感じた」と振り返る。心にぽっかりと穴の空いたような日々を過ごしていたある朝、彼の人生に一本の光が差し込む。

「バイト終わりの明け方、高円寺の商店街を歩きながらコンビニエンスストアにたまたま立ち寄ったんです。普段目を向けることのない雑誌コーナーにふらっと寄ったら、雑誌『ブルータス』が何となく目にとまったんですね。再販されていたコーヒー特集で、たまたま手に取って読んでいたんですけど、そこではじめて『スペシャルティーコーヒー』という言葉に触れたり、知らないオシャレなショップがあることを知ったりして、何か気になってその雑誌を買ったんです。翌日には、そこに掲載されているお店に片っ端から巡りはじめていました」

「コーヒーが心に刺さったというよりは、好奇心が刺激された」と、そのときのことを振り返る福島氏。それまで自分が知らなかったワード、知らなかったショップ、知らなかったコーヒーの世界という新たな要素が、彼の人生に新たな炎を起こした瞬間だった。

コーヒーという扉を開いた先で
心に決めた自身への戒め

多くの店を巡るなかで、「FUGLEN TOKYO」でTim Wendelboeのコーヒーを口にしたとき「これまでの自分が飲んできたコーヒーとは明らかに違う味と香りに衝撃を受けた」と、その衝撃の大きさを振り返る福島氏。また、「ONIBUS COFFEE」がまだ奥沢だけだった時代、同じ飲食のジャンルで働く自分とはまったく異なる接客や自由な働き方に衝撃を受けたとも。

ハンドドリップをする福島氏

「イラッシャイマセじゃなくて“こんにちは”なんだ、みたいな。そのフランクさというか自然な雰囲気にカルチャーショックを受けたのをよく覚えています。お店と来る人の関係性が店員とお客さまでありながら、人と人なんですよね。温もりを感じるし、なんかいいなぁって。それをいつか自分も体現したいと思った。そういう人との繋がりとか、暖かさみたいなものを自分もやりたいって。たまたまそれがコーヒーだった訳で、言ってしまえばなんでもよかったんですよね。そのとき偶然影響を受けたのが、コーヒーショップだったという」

「お店がかっこいいからだけでなく、コーヒーがズバ抜けて美味しいからだけでもない。どちらも単体で実現できても、僕の理想はかたちにできないと思う」と、福島氏。その当時感じたことやこれまでの歩みを踏まえながら、自身の性格についても次のように考察する。

「ひと一倍、好奇心が強いのかも。知らないことがあれば知りたいと思うし、好きなことに対してもしっかりと調べたい。体験ベースで自分に落とし込んでいきたいんですよね。江頭2:50の名言“記録よりも記憶に残る”じゃないですけど(笑)。使う機材はなどは正直何でもいいと思っていて、美しいコーヒーを作れるかどうかというのは、それに向かって蓄積された体験・経験で、極論、道具は関係ないと思うんです。ただ、漠然とそれを思うのではなく、いろいろなものを試したうえでそれを理解したい。だから新しい器具なども積極的に試しますし、気になるお店や場所にはよく足を運びます」

その性格はコーヒーと出会ったばかりの20代前半の頃から変わらず、当時コーヒーのことが学びたくて1日に10店舗ものショップを周ってコーヒーを飲んでいたといい、気づけばバイト代をほとんどコーヒー代につぎ込んでいたほど。猪突猛進でコーヒーの知識を身につけた福島氏は、いよいよコーヒーマンとしての第一歩を踏み出すことに。

「22歳のある日、『Paul Bassett』へ行ったときに『アルバイトの募集をしていませんか?』と何の気なしに聞いたら、週一でもいいならって、面接をしてくれることになって。そこから僕の本格的なコーヒー人生がスタートしました。『Paul Bassett』では数年間かけて、いちから知識と経験を会得させてもらいました」

27歳には独立したいというぼんやりとした目標だけがあったと話す福島氏。アルバイト自体は週一回だったものの、ほぼ毎日店へ足を運び、無償でもいいからと頼んでカッピングやレジ打ちをさせてもらっていたと話す。「当時は本当に自分本位だった」と反省しつつも、その行動ははやく一人前になって独立したいという思いが強かった故のこと。「あの頃は時間のすべてをコーヒーの知識と技術を会得するために全振りしていた」とも。また、「いかんせんサボりグセがあって、子どもの頃から手を抜くことを知っていた」という話は前述の通り、何事においても、自分のなかで70%できたらOKにしてきた人生だったという福島氏。独立を決意したその日から、コーヒーの世界では絶対に逃げないと決めたそう。

「自分への戒めとして、コーヒーだけは手を抜かないって決めました。人生ではじめて全直で取り組んだのが、コーヒーです」

海外で、個人経営店で、
自身の経験値をさらに拡充

Paul Bassettへ在籍中、休暇で訪れたオーストラリアのコーヒーシーンにも大きな影響を受けたと話す福島氏。何ごとも体験ベースで自分に落とし込みたいという性格は変わらず、現地のカフェで働くため、退職して単身オーストラリアへ。

「Paul Bassett には合計で3年半くらい在籍していて、後半は『The Local Coffee Stand』の立ち上げなどに参画させてもらったりもしていました。そんなある日、休日に訪れたオーストラリアのコーヒーシーンに大きな影響を受けたんですね。もっと知りたい、体験したいという思いが強くなってしまい、英語もままならない状態で何も決めずにオーストラリアへ単身飛びました」

言葉の壁に四苦八苦をしつつも、現地でオープンしたばかりのローカルなカフェでヘッドバリスタとして店頭へ立つこととなった福島氏。日本での下積み時代に磨いたスピーディーなオペレーションが功を奏し、海外でのバリスタデビューを果たすことに。

「オーストラリアのカフェって、カスタマーによって本当にいろいろなオーダーが入るんです。ミルクだけで5種類以上あって、砂糖を何スクープ入れるのかとか、エクストラホットやフォームの量、ミルクの量など、細かくオーダーが分かれていて。その情報が書かれたドケット(オーダーシート)が常時10枚くらい並んでオーダーが切れない状態です。オペレーションスピードには自信があったので、仲間たちとともになんとかこなしていました」

その後、以前から親交のあったオーナーの佐々木修一氏が展開する「PASSAGE COFFEE」の立ち上げに合流するために帰国。佐々木氏といえば、エアロプレスの世界チャンピオンとしても知られる人物。そのもとで働きながら、福島氏も店頭へ立つにあたっての心境の変化があったという。

「世界チャンピオンのお店ということもあって、品質が良いのは当たり前。佐々木さんはコーヒーを知っている人に対しても、知らない人に対しても、どうしたら広くデイリーに楽しんでいただけるかを考えている方なので、自身の獲得したタイトルや品質を前に推しすぎず、ストーリーを売らず、粛々とコーヒーと向き合っている。そこがかっこいいというか、素敵だなって。人との付き合いを担ってくれるコーヒーという感じで。その比重というかバランスを学ばせてもらいました」

その後、「PASSAGE COFFEE ROASTERY」の立ち上げなどを経て、2年ほど勤めた同店を退職することに。バンドのときもそうだったように、福島氏のなかで疲れのようなものが出てきたそう。肉体的な疲れではない、マインド的な疲れのようなものは、不本意ながら彼のなかのコーヒーの熱をさますことに。

「短期間ですけど、離れると燻るんですよね。自分のなかで好きなことを再認識するというか、コーヒーへの熱がまたジリジリと燻ってきたんです。そんなさなか、当時DCSに在籍されていた辻本貴弘さんが若手のバイヤーを探されていて、僕に声をかけてくれたんです。もちろん生豆にも興味はありましたが、誰でもできる仕事ではないと思っていました。せっかくお誘いいただいたご縁もあって、ぜひ! と、そのまま兵庫県へ行くことに決めました」

そこから兵庫県へ1年間移住することに。生豆なら何でも良かったわけではなく、“辻本さんとやる生豆”に興味があったと話す。辻本氏はDCSを退職後、コーヒー生豆のインポーターとして株式会社SYU・HA・RIを設立。のちに福島氏もこの会社へ合流することとなるが、一度は地元の群馬へ戻ることを決意する。

自身が感じた人と人の“温もり”を
体現したい、ただそれだけ

30歳で地元に戻った福島氏。その当時は自分の店を持つことや独立したいという気持ちは毛頭なく、ただ漠然と地元に戻ってきて2〜3ヶ月のあいだぼんやりと過ごしていたと話す。しかし、自身が東京や関西、オーストラリアで触れてきた日常のコーヒーシーンと、群馬で過ごす日常を重ねたときに、自分が理想とする「こんなお店があったらいいな」が無いことに気づく。「そこからですよね。無いんだったら自分でつくるか、って。高崎にも素敵なお店はたくさんありますし、自分が何かプロダクトを表現したいわけでもない。ただ、うまく言えませんが、“あったらいいな”がなかったから作ることにした。本当にそれだけです」

warmthのスタッフと福島氏

そうして誕生したお店こそが、「warmth」。オープンにあたり不安なことなどはなく、「むしろ、多くのひとたちに知られないようにはじめたかった。ひっそりやっていこうくらいの感じでした(笑)。細々と食いっぱぐれないくらいの収入が維持できればそれでいいかなって。小さい規模で自家焙煎して、それこそONIBUS COFFEEのスタートがそうであったように」と、福島氏。ショップのスタンスについては次のように話す。

「ONIBUS COFFEEで抱いた憧れ、Paul Bassettで学んだ思考の枠組み、佐々木さんや辻本さんをはじめとするすべての人びととの出会い、ほんとうにすべてが線で繋がった感じかも。根底にあるのは、人との繋がりとか、ちゃんと感じることのできる暖かさ。それが僕たちがいちばん大切にしていることです。だからこそ、僕たちのお店がすぐ目の前の人たちに向いているのは、そういった理由だからかもしれません」

warmthとは名の通り、「ぬくもり」や「あたたかさ」をあらわすが、実はこの店名、福島氏が「もし自分がお店をやるならどんな名前にしよう」と、ずっと以前から温めてきた名前なのだそう。

「お店のコンセプトを聞かれると難しいのですが、しいていうならば老若男女、人生の余白を大切に感じられるような寄り合い所になれたらというのが、お店のコンセプトになるのかな。自分自身も余白をとても大事にしていて、そこで、よりあたたかさとかいろいろなものに気付けるのだと思う。余白を持てていないということは、そういうあたたかさとかに気が付くことができない詰まったガチガチな状態だと思うので、常に余白を持っておきたいし、そういうニュートラルな気持ちを作れる場ってすごく大事だし、日常的に行ける場所にあって欲しい。それが当たり前にある日常が、僕たちにとってもお客さんにとっても当たり前になっていけたらいいなって思います(笑)」


そう笑って話す福島氏。体験ベースで自分に落としこんでいきたいと話す彼だからこそ言える、説得力のある言葉だろう。クオリティばかりを追い求めるわけではなく、あくまで伝えたいことの差なのではないかと話す福島氏。

「過度なこだわりはお客さんからすれば関係のないことで、重要なのはリラックスできる場所かどうか。右利きか左利きかをみて、利き手で取りやすい場所へ提供してあげることの方が、過度なクオリティへのこだわりより重要だと思っています」

「サービスを意識していると思われたらNG。無意識に気遣い・心遣いができて、お客様に対してさりげなく心地よくすごしていただく環境づくりができなくては」と、厳しくもやさしく、いつもスタッフのことを気にかけている福島氏。warmthとして、これからどこを目指し、なにを成し遂げようとしているのだろうか?

「今後の展望というか、常に目標であり経営者として自分に課していることですが、労働条件であったり雇用面で働きたいと思ってもらえる組織にすることです。ショップの雰囲気や味わいであったりオーナーの人柄などで働きたいと思うお店は多いと思うんですけど、労働条件や雇用面で働きたいって入るコーヒーショップはまだそこまで多くないと思う。それを達成したいですね、個人としても、社としても。大事なのって、仕事としてコーヒーをやっていくなかで、主体的・能動的にオーナーシップを持って働いていける気持ちを“従業員に”持ってもらうことだと思うんです。warmthはその可能性を持っていると思うので、いずれはスタッフがSYU・HA・RIに出向する可能性もあるでしょうし、あたらしい形を作っていきたい。そのかたちを表現しながら、僕はスタッフやお客さんにしっかり還元していきたい。コーヒーマンとしてちゃんと食べていける仕事づくり、環境づくりを達成していきたいと考えています」

【プロフィール】

福島宏基/HIROKI FUKUSHIMA
warmth

warmth(ウォームス)のオーナー・福島宏基氏

1990年生まれ、群馬県佐波郡出身。バリスタの登竜門として知られる「Paul Bassett」で下積みを経験。海外のコーヒーショップでの就業など幅広い目線で知識と経験を会得したのち、「Paul Bassett」で知り合った恩師・佐々木修一氏が独立開業した「PASSAGE COFFEE」に合流。その後、優れた味覚と技術を生かし、「DCS」の生豆部門へ転職。退職後、地元・群馬にて「warmth」をオープン。生豆商社「SYU・HA・RI」での仕事も兼任している。

【スタッフクレジット】
INTERVIEW&TEXT/NORITATSU NAKAZAWA